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おはようございます。
シンガー・ソング・ライターのSnuffkin@です。
仙台市内は、冷たい空気の朝です。
今、文章を書いているお部屋では、空調の音が鳴り響いています。
今朝、ふと。思いました。
朝ごはんを食べていた時の事。
向かいの席の人に、相席を願いました。
「ああ、いいですよ。」
心がないように見えて、とても心遣いがありました。
「ありがとうございます。」
美味しい料理でした。
と言うか、、、
余り美味しいものではないものも、小鉢に入っていました。
しかし、美味しかった。
思い出して見ます。
この時、料理を支える、
「感謝の対価」としての、私の相手へのリターンとは、、、?と。
お金です。
そして、何より、
こうやって、
「お金を通じて、思いを通い合わせている」と言う事実ではないでしょうか?
と、思いました。
この、空間に。
この、お部屋に。
そして、この器に、
周りの全ての人に。
感謝申し上げた時、
私は、涙が出そうになりました。
「足りない。足りない。」と言っていたのは、
私が、そう思い込んで、見ようともしていなかった、
誰かの思いや、誰かが必死にそこに存在しよとしている事実そのものであったのかもしれません。
乾いたスポンジの様に、どんどん吸い込んで生きます。
「誇りという誇りとは」
つまりはこういう事なのでしょう。
「自分のイメージのため」<「誰かの喜びも加味して」
愛とはなんでしょうか?
戦国時代ですら、甲冑の兜に、
「愛」というモニュメントを飾りとして掲げていた武将がいると知っていました。
例え、殺し合いの野に放され、放たれようとも、、、
そこに、「愛」を見出した人が、本当の意味での誇りを手にするのでしょう。
上古の時代の文字や文法は、今は存在し得ません。
しかし、
その時代の全ての時間の中にも、
あらゆるドラマが存在していました。
しかし、
そこにあった、
「文-「法」」は、もうそこにはない。
文字の伝統も、途絶えています。
時代は変わる。
Times they are chainging.
そのものが、そこにはあります。
変わらないものを求めて生きています。
変わらないものこそ、
「中枢の中枢にあるもの」であり、
必要ないし、
必要だし、
人それぞれなので、私は他の人の意見に介入するものではありません。
しかし、
今日感じた「Reallity」こそが、
「Reallizm」として、私の中にある、
「本来の人生の現実(日常)」
なのだ。と、気づくのです。
いつか、人は、、、
その「闘い」をやめなければならなくなる時がきます。
(世界のルールと言う仕組みの側面ではなく、
人のいのちが有限である。と言う事実の前に現れてくる物事のことです。)
その時、人は何を思うのだろうか???
かろうじて、その側面を見つめながら死を迎えて行った人を看取ったことがありました。
https://www.youtube.com/watch?v=_UFiQcGe_Qc
SSW-Sing like suffkin