自分なりの生き方でいい。

こんにちは。

 

ストレスを味方につける。と言うアイデアを以前目にしました。

以下の動画です。

 


TED ストレスと友達になる方法 - ケリー・マクゴニガル:  日本語

 

 

ケリー・マクゴニガル博士の伝えていることを初めて目にしたのは、

今から5年ほど前の事でした。

 

『目標設定の際には、目標(ゴール)への道のりを習慣化で染め上げてしまう必要がある。』

その上で、

『習慣化を果たした後、それを「セルフイメージのUPの為に行う(達成感を得た自分になる!)」のではなく、

その先に出会う誰かとの約束や、その人たちへの恩恵のために行う事で(使命感)、習慣化が明白な「感情体験としてのゴール」を持つようになり、導かれる。つまり、習慣化に欠かせないのは、ゴール設定の先に出会う人々への貢献心である」とするものでした。

 

 

このことから、色々と想起してみた事があったので、以下に書き連ねて行きたいと思います。

 

 

 

何か、変化を目の当たりにする時。

変化を求められた時。

 

「まだこの場所にいたい!」

と言う思いが必ず生まれるものでしょう。

 

抵抗し、もがき、いかに現状を肯定するか?考えたり、行動してしまうこともあるかも知れません。

 

 

 

しかし、後ろからドン!と、背中を押されて、前のめりになって一歩踏み出して倒れないようにしたとしたなら、、、

 

 

変化を求められると言う時、その批判的な意見のように見える全ては、

 

「自分の未来を祝福し、「そっちへ行け!」と伝えてくれているお達しであり、エンパワメント(勇気付け)」である。

と言う見方もできます。

 

 

 

ストレスを感じると、心拍数が上がりますが、

それにより心臓も、チャレンジ精神も強化されている(ストレス時に心拍数を上げる「コルチゾール」とは、戦うか逃げるかを瞬時に決める(行動を無理やり促す)為に分泌され流れる内分泌ホルモンです。=闘え!と言う合図とも取れる)と捉えると、これもまた、「不健康になるサイン」ではなく、

「勇気づけと励ましとパワーを充填す否応無しのパワーが働いている。」と言えます。

 

 

また、それも含め、一見不幸に見える全ても、

「次のステージへ行け!」と言う合図なのかも知れません。

 

 

 

その時、「カラダの声」が求めないような(「自分」に嘘をつくような)選択はしなくてもいいと決めて、

カラダの声に耳を傾けられるように準備しておくことも必要でしょう。

 

 

(流れに身を任せてばかりだと、本当にいい方向に行くのか?特に自己犠牲傾向がある人は要注意なので、

ここで「自分なりの答え」を再確認したり、し続ける、探索し続ける楽しみも味わって行く必要があります。)

 

 

いつの時代も、変革は起きていました。

なので、今だけではなく、人生のいつの時も、

「これから何かが始まる!感」はあったはずですから、今が特別である。と言う訳では無いのです。

 

 

ただ、自分の中にこそ真実がある。と見つめる事がとても大切だと私自身は思います。

 

(外に何かを設定したとして、「設定自体(色眼鏡)」も、「設定したのも」全部「自分であり、自分の一部がした事」でしかありません。なので、それが変われば、千差万別の彩りが世界にはポテンシャルとして存在していますから、どんな信念でも、思い込みである可能性が高い。と実質的に見ていて感じる時があります。)

 

もし、何かに突き動かされている(自動運転している)感があるならば、

立ち止まっていても「平気か?」精査する必要があります。

 

そうでないと、自分「で」選んでいるのかわかりづらいものです。

(何が?突き動かしているのか。その先にある意識の正体が見えれば話は別ですが)

 

 

対照的に、

「自分以外の何かが全てを起こしてくれている」と思う考え方もありますが、

自分の意識の中で起きている事なので、

「頼りたい志向」が強い人ほど、それを選び「たい」と思うだけなのかも知れません

 

 

ちなみに私は、頼りたい思考も、自分「が」やりたい志向もあるので、

(「カスタマイズされた自分の基本」はどうあっても変わらないつもりですが)

影響は受けます。でも、また、中心軸に戻ってくるように出来ています。

 

永らく「自分軸がない」と言う言葉が流行ったり、

「内側の声が聞こえてない」と言う言葉が聞こえたりしているのを目にした耳にしてきましたが、

 

「もう既に軸もあるし、声も聞こえてるよね?」

 

と思うのです。

 

後は、嘘をつきたい理由にある真のモチベーション(表面的な指向性ではない。と言う事ですね。)

さえ満たしてしまえば、

どこにいても何をしていても、感情体験は満たされてしまいます。

 

 

人は「幸せになる為」と言うより、

「幸せでいる為(幸せに立ち止まる為)」に生まれたのだ。

と言うのが私の持論です。

 

 

全ての現象は、「それぞれの人たちの「自らの」モチベーションをブーストし、

エンパワメントしているのだ」

 

そう思うと、世界が優しく感じられませんか?

 

 

「自分なり」で、いいんですね(^^)。

 

 

 

今この時点の総て=自分史上最高の自分。

こんにちは。

 

青春時代を思い出す時、

 

森田公一とトップギャランは、「夢なんて後からほのぼの思うもの」と歌っていました。

 


青春時代 / 森田公一とトップギャラン

 

 

確かに、、、

 

辛いことも沢山ある時期です。

 

でも、他の人生の時代時代でも、やっぱり辛いことは欠かせない。

 

ある精神病の患者の方は、

「病気は人生のスパイス」と言う名言を残しています。

 

その時、

青春時代を思い出したなら、どんな『空気感』が漂っていたでしょうか?

 

その『空気感』。

種類は違えど、その後も様々色と手と品を換え、時代時代を彩っていた…。

 

そんな風に感じるのは私だけでしょうか?

 

例え、一年ほど前の事でも、

懐かしく思い出せてしまいます。

 

「今、私は幸せではない」

 

何故ならば、、、

 

「昔、あんなに幸せだったから」

「未来、もっと幸せになっているはず(『あの頃』みたいに!)だから!」

 

 

でも、後から思い出したならば、

究極の話、死ぬ寸前、懐かしく、愛おしく、

自分の人生の寸断寸断を、幸せに思い出すものなのかも知れません。

 

ちなみに私は、中学生時代ぐらいから、小学生時代を懐かしく思い、

高校生時代は、中学時代を懐かしく思い、、、

 

と、無限にループを繰り返してきました。

 

しかし、人と話をしている時に気づかされたことがあります。

 

私は自分を評価して、高校時代、冴えない生徒だった。

と思っていたけど、

 

ある人の記憶では、

「学年の人気者No.10の投票に入っていたよ」と言われることがあったのです!

 

記憶は定かではない。

 

でも、そこには確かに「空気感」がありましたよね。

 

 

それは、この一瞬一瞬にも及んでいて、

「今、この時点での空気感」は、

いつか必ずや懐かしく思い出すはず。と思うのです。

 

 

もし、昔の青葉の様な清々しい空気が味わいたい。と思うならば、

 

例え今、どんな状況であったとしても、

 

今、この時点において、

その時と種類は違うけど、「あの空気感」に包まれている事実を思い出したほうがいい。

そう思います。

 

実は、見えているものや、身を取り巻く環境や、ステータスの違いがある「だけ」で、

 

今、この時点においても、

愛おしい空気感は渦巻いて周りを取り巻いているのだと、気づきました。

 

 

 

未来志向の人でも、ノスタルジーに傾く人でも、みんな等しく、

今、この時間を、煌びやかな色合いで満たすことができるのです。

 

 

あ、今って、昔と同じなんだな。

空気感をコピーして貼り付ける様に、

今を輝かせてしまえばいいんだな。

 

と気づいて、

今を大切にしたなら、

きっと、また同じ様に後悔せず、

 

「今出来る事(例え限定的であっても。いや、限定的である方がいいのかも知れない)」をやろうと思えると思うのです。

 

今、この時点、この場所、この体は、

 

喜びに満たされています。

幸せだらけです。

愛情たっぷりです。

(そうは思えない時も、あるけれども、その時は、「やっぱり、そう感じるのは無理なんだな。」でいいんだと思います。)

 

 

 

自分に優しくすると言うのは、

「今この時点を愛おしむ」。

これによってなし得るものなのかも知れません。

 

 

思考が止まらない時に読んで欲しいアイデア

こんにちは。

 

今日は、私の地元も暖かい1日でした。(2020年の2/12当日です。寒波が去り、西側から暖気がやって来ているせいだそうです。)

 

 

朝から日差しが窓からこぼれ、差し込んで来ていました。

 

朝は、必ず神棚の水と、榊の水差しの水を入れ替えてから、「ありがとうございます。」と伝えて1日を始めます。

 

 

 

ところで、最近は、朝起きると悩み事が頭をもたげることが多かったのですが、

 

少し自分を労わってみようかと決める事で、まずは図書館で健康法の書籍を借りて見たり、家にあった「積ん読」の本を読んだりして、少しずつ、修正を加えてみることにしていましたら、

 

段々と、前向きな考え方が少しずつ分泌される様に、頭の中でときめきや優しい感覚を生み出してくれる様になって来ました。

 

頭で考えている時は、頭も緊張しますよね。

 

その対処として、やはり、

体も(当然ですが、「頭もまた」体の一部なので、頭にも同じ様にアプローチします。)、一緒に働いてくれているココロも、緩ませる必要があると思いました。

 

最近ハマっているのは、「ポリヴェーガル理論」の本です。

 

 

 

簡単なエクササイズについて、腹側迷走神経と背側迷走神経。そして、交感神経の働きについての説明も交えながら、紹介をしてくれています。

 

体はリラックスしたがっているのに、ココロがとにかく焦る。と言う様な身体とココロの状態を、神経学的に紐解いてくれているので、ココロからアプローチして迷走すると言う事を避けながら、時間をかけて自らをセラピーしていきます。

 

 

また、今日読んだ本の中で、印象的な一節がありましたので紹介します。

 

「全ては連関していて、それらがハーモナイズ(交響している:一緒に響き合って合唱している様な状態の事です)している。と言うことに意味があります。」

 

と、こんな事でした。

 

 

心臓の電流が発する電磁波が、ある距離感にいる人に対して伝わり、緊張や安心感が、波として同期すると言う話は最近有名ですよね。

 

 

そんな例を取っても、自分がどんな状態で世界と響き合っているのか、関わり合い、会話し、共鳴しあっているのか?

それが何より大事だと気づくきっかけになりました。

 

 

私は歌を歌う事をしています。

どんなモチベーションで「歌という音波の波長」を届けていたのか?

少し、反省する様な気持ちになりました。

 

私は、自由放任主義で育てられて来た人間なので、

歌やギターについても、なるべく「計画的にならない様に」、

準備というより、いい意味で言えば「即興の楽しさ」を大切に、

悪く言えば、「いい加減に」(そんな風に目に映る人もいたと思う実感がありました。)。

 

そんな自由な演奏が大好きでした。

 

でも、それは逆に言うと、

地に足をつけていない様な、ふわふわして、何を伝えていいのかわからない様な

「迷い」と「不安定さ」を標榜し続けていた様な。

そんな弾き語りの10年間だった様に思います。

 

簡単に言うならば、

「即興的ならば即興的に、確信を持ってやればよかったのだ。」と、そう思う様になりました。

 

そして、実は、

もう既に、確信は得ていたのに、

周りの「確信度合いの強(そう)な人」の(私が考えたり感じたりしている「だけ」の)相手の確信度合いの強さの「基準」に「合わせようとしていた」と言う方が正しかったのかも知れません。

 

でも、明らかに、当てずっぽと呼ばれそうなぐらいの方がいい演奏が出来ます。

 

湧き出てくる様に、確信のない演奏を連ね方が、

寧ろ「形になる」と言う感じです。

 

以前、「ホリスティック医学」の講座を受講した時、こんな話も聞きました。

 

「海から流れる様に蒸発した水蒸気に、太陽の光がうまく反射すると、「幾何学模様」が生まれる」

「川の流れでも同じ様なことが生じる」

=「形が生じるには、「自然な流れ」が必要」と言う事。

 

これは、私の演奏そのままではないか!と気づくのです。

 

 

そこに、修練が足りないとか、

計画性が足りないとか、と言うのは、

もしかしたならば、

 

計画性で音楽をやる人のスタンダードの防御であるかも知れなかったのかも知れない。とそう思います。

 

 

ポリヴェーガル理論で神経のバランスを修復した先ではないですが、

 

何より大切なのは、

「自分が「自然で」「楽しい」」これが大きな鍵になる。と言う事です。

 

積み上げるのが楽しみ。

積み上げて自分を追い込むのに夢中になれる。

 

と言う人は、そうする事で、

何よりの「至福」を手にする事が出来ますよね。

 

ぼんやりしている様で、いつも考え込んでいた訳は、

 

 

浮かび上がって来て湧き上がる全てを、

どうにか「制御しよう」としていたからなのかも知れません。

 

 

「計画性」と言うネットで縛り上げようと、自ら、

しかも、自らが望まない方法を使う。と言うのは、

 

本当に自己矛盾でした。

 

だからこそ、確信が持てなかったのかも知れません(^^)。

 

 

今日の一言:「自分に嘘をつかない事で、頭の中の滞りは消えます!」

 

 

今日のお役立ち情報!


開花の呼吸法 ~楽で気持ちいい最新の呼吸で、疲れから自由に~【楽ゆる式】

 

私が大好きな「楽ゆる式整体の永井さん」の動画です。

 

この呼吸法は本当によく効きます。

頭がスッキリしますよ。

 

あと、もう一つ。

 

手のひらを、額の両側にある突起部分に優しく当てて、

肘を体の前面にある机などで支えたまま、この呼吸法をやると、

とても頭が緩みます。

 

考え過ぎたり、計画を練り過ぎて一杯一杯になったり、

情報を取り入れ過ぎて頭がパンパンになった時に、

頭の中のモヤモヤを吐き出す様なイメージも持ちながら是非試されてみて下さいね。

 

ではでは!(^^)♬

またお会いしましょう!

 

 

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どんな自分でも自分に自信持って、スマイル、スマイル!

 

夜の活用アイデア〜ココロの持ち方編

こんにちは。

 

※このブログは、夕方から夜にかけて更新しています。

徒然に書くブログですので、

 

SNSの媒体でシェアする専用で書いていますが、

気になった方は是非、足を止めて読んでいただけたなら幸いです(^^)。

 

私は夜が来ると、ワクワクします。

 

でも、本当に大変な環境に暮らしている人は、

 

夜が来るのが怖い。と思うかも知れません。

 

特に、繊細で、気のつきやすい人は、

その過酷な環境の元、この時間をどう乗り切るのか?

 

それが大きな課題ですよね。

 

参考にして欲しくて書きますが、

私が夜を楽しみにしているのは、

 

 

部屋や家の中という閉じた空間が、

より、閉じた空間になる。

 

そう感じるからです。

 

外が真っ暗だと、自ずと

 

囲まれて限定されたこの場所が、

その空間の密度を増している様な気がして来ます。

 

守られている。

もしくは、

 

籠って作業が出来るとか、

自分のスペースが出来る。。。

 

と言うような感じ。

 

 

普段、オープンに空間を感じられる(敏感か、繊細な)人ほど、

 

夜の時間と空間をうまく利用するといいのかも知れません。

 

 

不安な現状があるならば、

不安の理由や問題点、そこから見えて来る課題などを

紙に書いてまとめた後、

 

課題を乗り越える策を何個かこしらえます。

 

その中で、踏み出せそうな一歩を

明日の朝から始めてみるとか、、、。

 

 

準備をするのが楽しいように、

人生の課題への向き合い方にも

 

遊びが効いていて、ゆっくり携われる環境が作られるのは、

正に夜!

 

と、私は思っているのです。

 

 

夜の楽しみ方を、たくさん工夫して、

乗り越えたいですね。

 

 

前向きなその一歩が、

 

大きな目標の達成への長い道のりを作るのだ。

 

と、そう思います。

 

皆さんも、夜を活用してみませんか???

 

 

〜今日の一言〜

内側の暗い空間に慣れると、

外の暗い空間にも優しくなれる。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

またお会いしましょう。

 

 

 

 

考えている。と言う事。

最後の晩餐。と言う

質問を何度も目にしてきました。

 

「今日の夜地球が終わるとしたなら、その晩御飯は何にする?」

と言う質問です。

 

そんな余裕ないやろ!

 

ともしもその事態になったなら、普通は思うはずです。

 

 

考えていること言うのは、それほどに荒唐無稽なことであったりするのかも知れない。とふとある人の弾き語り映像を見ていて思いました。

 

 

 

命が踊るままに躍らせればいいのだ。

そんな歌です。

 

 

 

人に影響受けやすい私なりに、深くふに落ちたのですが、

 

今、この瞬間が「私の人生の全てです!」と言えなかったならば、

 

タクアンをつまんで口にしているはずが、

次の一口であるステーキの一切れの味わいを妄想する事になってしまいます。

 

 

 

タクアンのあのなんとも発酵臭に満ちた今の味わいと香りは、

二度と戻ってきません。

 

 

 

しかし、記憶も予測も全部消えるとなると、それも不自由です。

 

 

だから、人間は、

考えるのでしょう。

 

 

考えてもいいけど、辛くなったら休もう。

 

辛くなってる事にすら気づいてないならば、

少しマインドフルになろう。

 

マインドフルになれなければ、

 

今、次の計画のことばかり考えて生き急いでいる自分を楽しもう。

 

と、これだけなんだな。

と気づきます。

 

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以前、書き物をしていたなら、閉店時間を過ぎているのに気づかなかった夕方のcafeの映像です。

 

愛の深い人

愛の深い人。

 

広い訳ではなくて、「深い」人です。

 

だだっ広く愛を振りまくよりも、

もっと深く味わいを残すように愛情を持っている人が時々います。

 

 

そう言う人は、別にこれと言って何か突出していないか、

そればかりか、

何も持っていない人であったりします。

 

突出しているものを持っていれば、

外に出したくなるから、

 

当然。

 

何かの機会にそれを人に伝える機会も増えます。

 

しかし、そんな感じでもない。

 

日常を淡々と過ごしているような感じすらします。

 

 

 

「愛」

と、

一言に言いますが、

それは一体なんなのでしょうか?

 

「この感覚?」

「あの人が抱えている「であろう」その感覚?」

 

別に探索しなくても、実はもう、目の前に現れていたりする。

 

僕らはいつも罪を犯します。

 

完全に潔白な人などいないでしょう。

 

でも、それを見ても許してくれている人がいる。

許されている自分がいる。

そして、誰よりもそばで

「自分が」自分を許している。

(裁いている。と言うのは実は便宜上であったりする。と自分を見ていて思います。)

 

ただ、ちょっと臆病なだけで、

 

許されることを選んでいるし、

許すことも選んでいる。

 

それがごくわずかな心の残渣のようなものであったとしても。

 

 

特に、その自由な真心を大切にする人を、

愛の深い人。と僕は呼びます。

 

 

よく泣きます。

よく笑います。

よく世話をします。

 

でも、それは。

とてつもなく悲しい時期を経てきたからなのかも知れない。

 

自分がして欲しかったことを、人にして「あげたい」

 

自己犠牲だと揶揄する人もいますし、

気持ち悪く見える時も(私の視点からも)当然あります。

 

 

でも、

そのわざとらしさすら、心の中に住んでいていい。

と無罪放免にした時、

 

心というカテゴリーは、自分と他の人に共通するものだと思われるので、

 

当然、相手の心の中に巣食うその「何か」も許せてしまいます。

勿論自分にも。

 

 

許したくなかったら許さないで、裁き続けていけばいいのだと思います。

 

 

 

気持ち悪くてもいい。

そしたなら、

 

気持ち悪かった全てが、「機能している」事にも気づけそうです。

 


Sing like snuffkin - 君が決めること & 夜空の星の下で

かけがえのない人な自分とは君が決めること。。。

ただ、何となく、幸せ。

そんな状態があるといいな。といつも思っていました。

 

特に、この十年間ぐらいはその事ばっかり考えていた気がします。

 

でも、よくよく考えてみると、何が足りなかったのか分からない。

 

足りない。と言う言葉が、色んな表現を使って私を追い詰めていました。

 

でも、何だろう?

この違和感は。

 

ずっと考え続けてきましたが、

ようやくこのところ一つの答えにありつけました。

 

 

体一つ。

そして

それが”ここ”にあれば、既にもう。

何もかも揃っています。

 

存在の存続に関わるぐらい、

焦りまくっている人がいたなら、伝えてあげたい。

 

もう、何も焦る必要はないよ。

 

やっぱり、前々からいろんな人に伝えてきた通り、

完璧じゃない人も、ものも、

存在しないんだ。と気づきます。

 

ただ、何となく、幸せ。

 

よく確認して、それも頭を使って、

体を触って、確かめて見てみると、

 

確かにここに何かがあります。

 

何かは深めなくてもいい。

深められる人は深めたらいい。

 

でも、やっぱり、

光か闇なのか分からないけど、

 

穏やかに寝息を立てる様な安堵が、

ここに「私」と言う表現で表れています。

 

 

ただ、何となく、幸せ。

 

 

その為に必要のないものは、もうこの際、一切合切過去に置き去りにしてしまおう。

未来からやってきても、後ろへ受け流そう。

 

 

 

もし、コントロール不能なことがあって、

いつも頭を悩ませているなら、

 

もう、コントロールしようとしなくていい。

ただ、体一つ。ここにいて、静かに深い呼吸をしてみよう。

 

もしどうしても我慢ならないことがあるならば、

伝えてしまおう。最も正直で、

卑怯じゃない方法と言葉で。

 

 

美しさで自分を満たしてあげられるのは、

やっぱり、自分しかいない。

 

自分て?

 

全てさ。

 

 


Sing like snuffkin - 君が決めること & 夜空の星の下で