(あなたの背中に未だ無いとしても)重ねられた手と手。が、ある。

こんにちは。

 

 

今回は、弾き語リストのブログと言う事で、

以前、S楽器さんで行われたスタジオオーディションの様子を紹介したいと思います。

(S楽器さん、シェアさせていただきます。ご了承ください。)

 


HOTLINE2013 仙台泉店 亀井善之

 

 

 

 

最初、震災に遭われた方に、応援のつもりで作った曲でした。

 

しかし、考えが甘かった。

もっと深い傷を負った人が沢山いたのを私は目の当たりにしていなかったのです。

 

 

メッセージとしては浅薄。

そう、強く感じ、

 

その後は、

「一人、また一人と、人が去って行く様な人がいたなら、、、シンパシーを伝える為に」と。

 

歌い連ねてきた曲です。

 

一人じゃない。

腑に落ちると(と言うか、落としてしまえ!と言うぐらい腹を括る必要もあるかも知れません。)

これほど助かる人生の登り縄は無いなと思うのです。

 

登りと言うぐらいだから、「クライミング」レベルの不安や恐怖感を覚えている人もいるかも知れません。

 

でも、隣に仲間がいたら。なんとなく、勇気が出る様な気がしませんか?

 

現実にいなかったとしても、

「何か(未だ、よくわかっていなかったとしても)」が、

助けてくれているかも知れません。

 

 

よく、イメージの中で

「左側は過去」

「右側は未来」

 

と言う、時間軸を思い浮かべる人が多いと言う話を聞きます。

 

 

未来に、希望の光を据えることが出来るのは、自分だけなのだと思います。

 

今、暗いトンネルを抜けようとしている方。

 

どうか、忘れないでほしい。

希望を持てば必ず叶います。

 

なぜなら、行動レベルで変わってくるから。

行動できないよ。と言うぐらい落ち込んでいる人も。

 

きっと、行動できる様になります。

 

日現実的なことであっても、

希望を忘れないでほしい。

 

あなたの背中には、何本もの暖かい様々な柔らかさを持った手が、

今も重ねられているのです。

緩み系と緊張系〜

今日は何も書くことがないな。

と思いました。

 

 

…で、ふと思いついたこと。

 

「緩む」。と言うこと。

 

最近、とてもふわふわした感じの人を見ました。

何だか、とても安心しているようにも見えるし、

そうでもないのかもしれないし、

やはり人のことはわからないのだけれど、

 

でも、いつもふんわりしています。

そばにずっと居たくなります。

 

以前は、もっと静けさに満ちた人がそばにいました。

食事を一緒にする時のみ、同席します。

その人からは、おとなしくしていることは「金!」

と言うべきアイデアを、雰囲気からたくさん映してもらいました。

 

 

 

どっちの人も、「緩んでいる」んですね。

 

余裕というのは、弱い40にもなれば、男ならば持っていたいところです。

 

結局、どっしりしている人ならそれなりに。

実績を積む人ならばそれなりに。

 

そして、

緩んで、動じているのかどうかもわからないぐらい

「癒し系」な人ならそれなりに。

 

「余裕=緩み」があるのでは?と感じるところでした。

 

 

 

しかし、最近は自分はずいぶん尖っていたような気がしています。

 

この一年近くでしょうか。ひどく尖っていました。

 

しかし、ここにきて全部出し切った感があります。

 

残ったのは、少し冷たいところもある、味わい深いけど興奮の薄い男。

 

そんな感じがしています。

 

 

昔はポール・ギルバートの曲とか練習したりして随分と

情熱に燃える男になろうとしていましたが、

 

やはり!

 

人によって、課題というのは違うんだなと気づきます。

 

坂爪さんという男性ブロガーの人。否。ミュージシャンですね。

 

この人を見ていると、

いったいどれだけの情熱のポテンシャルを持っているのだろうかと羨ましくなりますが、

 

実は私もめちゃめちゃ破壊的な側面と、燃え盛る炎のような情熱を持っています。

 

殴り合いとかして勝てたなら相当嬉しいはず。

 

でも、それも、a

何か、外から見ている自分を俯瞰した目が喜ぶから。

それだけに過ぎないのであって、

 

それすらも俯瞰したなら、情熱ごと冷めてしまうような気もします。

 

 

緩んでいると、まるで水にでもなったかのようにまろやかに。

そして透明になります。

 

透明を目指して戦って来たわけです。

 

だから、もうワープして、結果が得られてしまう。

 

重いものを一旦下ろして見ませんか?

 

でも、まだトゲトゲを出し切って後の自分が

緩み系ではなかった場合、

 

重荷は逆に栄養ドリンクとなるのでしょう。

 

 

栄養ドリンクを飲んで、明日も頑張ろうかと思います。

 

 

 


自由表現〜

手放しに関する投稿を続けていました。

 

いつか、あるヨガの流派のアメリカ版が和訳されたものを購入して読んでいたとき、とても印象的だった言葉があります。

 

「目を瞑って、聞こえてくるもの、肌に触るもの、世界に想定する全て、そして私自身。

全てという全てを『変えたり、コントロールしようと』しなくて良い。」

 

 

また、ティクナット・ハン師のbotを見ていたところ、見つけたのが、

「坐るときは、『何もしないことを選ぶこと』をする時間」

 

と言う文言でした。

 

何も変えなくて良い。と言うのはとても嬉しい話だな。とふと思います。

 

ある人がこんな境地に辿り着いた。と言う話も聞きました。

 

「必要とするもの。喜びに基づくもの以外の全てを、防水スプレーをかけた傘のように、

水玉を弾くみたいにするんと弾いてしまう」

 

 

 

やはり、要らないものは要らない。

また、特別サービスで、良いと思わないものにまで

「良いよね。」「そうだよね」

が口癖だった事に気付いた時、

 

 

ああ、全然誠意がなかったな。と気づきました。

 

関係を繋ぐため。であったとしても。

それは「相互依存」の関係ではないと思いました。

 

共依存という言葉は嫌いなので使いませんが、

それに近い雰囲気を感じます。

 

 

感覚はすでにそこにあるのです。

 

 

「気持ち悪い」

「美味しくない」

「薄気味悪い」

「楽しくない・ちょっと時間を過ごすにはきつい」

 

悪い言葉ですし、使わない方がいいでしょう。でも、

ある人は、

 

「そう言う言葉が心に木霊しているのを無視して認めない方が問題」とまでいっていました。

 

 

私は、少なくともこころの中のレベルでは、変に検閲をつけない方がうまく行くような気がしています。

(人それぞれ全く違うと思います。)

 

 

出し切った先に、calmはやってくる。そう思います。

 

 

 

ちょうどいいタイミングでちょうどいい事がたくさん起こる1日です。

 

願っていた心境が手に入った感がとても強い。

 

 

フル回転はもうまっぴらです。

 

歌を歌う時もまた、喉の筋肉をほぐす事によってスルスルと声が出ます。

 

何も、つっかえるものがない心境で、全てを行えたなら、とても嬉しいはずです。

 

自由に表現ができるわけですから。

 

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仙台の菅田かおりさんがボーカルを務めるバンドの写真です。スルスル声が出ていました(^^)

 

ケーデンス(終止形)

矛盾を矛盾のままにしておくと、

「違和感」が生じ始め、

見て見ぬ振りを重ねていくたびに、どんどんと負の種は増えて行きます。

 

嫌いなら嫌い。それでいいんだと思います。

しかし、嫌いと思っていても、

実は好きだったと言うこともあるのかも知れません。

 

 

なんなら、嫌いと思って、「求め続ける」よりも、

視界の外に置いてしまうぐらいに処置してもいいのかも知れない。

 

 

人は、「わざわざつまらないこと」を選ぼうとする癖があります。

「わざわざ」と言うのが、憎いところ(負の意味で)なのですが、

 

それはひいては、

「好きと思っていたことが、実は嫌いだった」

という事と連携しているのかも知れないと思います。

 

 

大好きと言う言葉に弱さを感じても、

誰にでも伝えていいのかも知れません。

 

根拠のないプライドを持ち続ける人を見て違和感を感じるように、

この「私(self)」もまた、

 

変なプライドは捨てた方が身軽になれるかも知れない。

 

面白いことを選ぶと言うことは、

ひいてはレールから外れることです。

 

運よく、不運に成れた(慣れた)人は、

捨てるべきプライドがないと言う意味で、

めちゃめちゃ高いポテンシャルを持っているのかも知れません。

 

 

なので、私は今日も。

運が悪い(と思い込んでいる)人を

心の底では応援し続けています。

 

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理想の形ではなくとも、笑顔と言うものはとても素晴らしい。

 

産まれた後のコト

愛情が欲しい。と伝えていながら、

言葉尻では全く違うものを伝えていたりする。と言う事に気づいた事がありました。

 

「なんで、こんなに自分の本音と違うことを呟くのだろう?」

 

その時、「情が移る」と言う言葉を思い出します。

 

産まれてきた後、積み重ねたものがその人を狂わせるのではなく、

 

そもそもの「方向性」が、そこに存在しているのだろう。

と思う節もありますが、

 

「情が移る」とは、

「情けが相手の中に入っていく」と言うことでもあり、

「情けの中に相手が入ってくる」と言うことでもあると気づきます。

 

その時、

荒唐無稽な何か。これを想定するよりも、

よほど、

 

真実に近い事がわかるような気がします。

 

時に、霊に憑かれたとか、

エクソシストのような世界観は語られます。

 

そう言う可能性もあるのかも知れません。

 

しかし、私の可能性の中には存在していない。

 

敢えて言うならば、

まだ生きている人たちの、

「自分にとっては余計なしがらみ」

 

これこそが、体の詰まりとなって存在しているような気がしてきます。

 

 

亡くなった人たちは、本当はどうかはわかりませんが、

臨死体験」を例にとるならば、

 

「とても気持ちの良い世界にいるはずです。」

 

 

想定は設定であり、

設定とは、小説の筋書きのようなものです。

 

ならば、

自らが小説のライターとなり、ディレクターとなりましょう。

 

 

”私は永遠に幸せです”

 

そう呟いて、今日も朝が始まります。

その意識のまま、鼓舞し続ける事により、

 

漸く、”自分”が成立するのです。

 

story-tellerとは私自身なのです。

 

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産まれる前。

 

 

 

 

穏やかなお正月の景色の中に見たもの

(前提として:病み中で病院にいます。)

 

病院から出て、2kmほど先にあるドトールまで、歩いて向かいました。

 

年末に伺った時は、時間も時間だったせいか激混みだったのですが、

今回は、朝の厳しい雰囲気も和らいだまったりな、アフター・モーニングの様な雰囲気で、

レジの若く柔らかい雰囲気の男性店員さんも、優しくおもてなしをしてくれました。

 

 

ネイティブアメリカンの伝統について、ネットで見つけたときにピンときて買っておいた文庫本を取り出し読み始めてみました。

 

”ホピ族”の事が載っていました。

 

感覚的に、強いシンパシーを感じます。

 

ある統計学的なタイプ論によると、僕は結構な実績主義の様です。

 

績という字。少し変えてみると、「積」という字に似てますよね。

 

そのタイプ論で論じるところのその「タイプ」は、

日本神話に出てくる神様の名前が当てはめられていました。

(ここではその一柱の神様の名前は伏せておこうと思います。)

 

その他、眠る時間の多さや、集中できる時間によって四つの睡眠タイプに分けたタイプ論では、

「余りにも個性的すぎる人」と言う内容の結果も出ました。

 

 

タイプ論。様々あるけれど、

いいとこ取りをして、勇敢に、[calm]([カルマ]ではないです(^^))と言う言葉通りの生き方を紡いで生きたいな。と、

少し遅い目標設定ですが、決めることにしてみました。

 

そんなこんな、今となっては「実績主義」の自分でいたいな。と思う反面、

個人的な執着と言うんでしょうか?

 

 

そう言うものを追求した先には、、、

と、ホピ族は預言していたそうです。

 

 

でも、個人的には、

なんとか、世界はいい方に向かうだろう。と感じていたいし、

そう信じたいし、いつも信じています。

 

 

その本にはこんなことも書いてありました。

 

「大いなるもの(神というべきでしょうか)は、

生物の種類によって、差別視をしない。

全ての生物(creature:創造物)に光と奇跡を見出す。

 

”烏がトンビになる「必要(必ず要る。と書きます。ひいては、それが無いと保たない。ヤバい。と言う類の物事では無いということです。)」は無い。”」

 

 

 

自分らしさを発揮するって、なんでしょうか?

 

全部、自分らしく、決めていい。って事なんじゃないかな。

と自分らしく考えたりします。(うちの家庭の教育を司っていた母は、作法や礼儀にはめちゃめちゃ厳しかったですが、人生の岐路に立った時は、自由放任主義でして、いついかなる時も、通せんぼはしない人で、むしろ応援してくれていたので、そんな生い立ちも関係しているのかも知れません。)

 

 

 

間違いをおっかなびっくり回避・逃避しようとしすぎたのかも知れません。

 

実績主義ではありますが、”効率主義”とまではいかないんですね。

 

 

 

人生は、効率と言うより、味わった感動の数で決まる。

 

勿論。効率が感動に繋がるならば、

ちょうど単細胞生物の持つ「走光性」と言う、光に向かって動き”たくなってしまう”性質にも似ている様な気がしますが、

感動をその人なりに正直に求めていいんだと思います。

 

無論。感情を切り離して価値を生み出す人もいるから、「感動」とい言葉で一概に決められるものでも無いとは思うのですが。

 

 

 

そんなわたし「なりの」

自分「らしさ」

 

の中には、大自然への憧憬の様なものがあります。

 

だからこそ、こういった、アニミズム大自然信仰)とも言うべき「ホピ族の預言」にも、シンパシーを感じてしまうのです。

 

(でも、かと言って、雑木林の中に入って言って、藪漕ぎをするのが好きかと言うとそうでもない。

山は、遠くから近くから、「遠景」「近景」として、「見つめていたい(入り込んで行こうとは思わないのです。)」とそう思います。Stingの歌でに「見つめていたい(every breath you take)と言う曲がありましたね(^^))

 

 

今、この時点で、世界に存在し、柱となるもの(たくさんの人たちの信頼が詰まっている全てものです。)-(先ほども書きましたが、それぞれ、脊髄がある様に、神様については、”支えるもの”としての、「柱」と言う数え方があります。)

の恩恵はとてもありがたく思っています。

感じれば感じるほどに、胸に染み入ってくる歓びがそこにはあります。

 

これからは、「共生」から、本来の人間的「本能的欲求」へと流れが変わっていくのでは無いか。と、

伝えていた人がいて、私はその人のその考え方にもシンパシーを感じてしまいます。

 

 

 

天秤は、太くしっかりした「柱」にかかった秤(はかり)があるからこそ、均整を取ることが出来るのだと思います。

 

 

なんとなく、釈然とした気持ちになり、胸が透く様でした。

 

 

 

帰り道、神社の境内を、礼をして拝訪して通り抜けながら歩いていると、雪がハラハラと舞い始めました。

 

極上の美しさでした。

寒いのは「辛い」けど、

「慶び」でもある。「悦び」でもある。「歓び」でもある。

そして、喜びそのものです。

全ての時間をじっくりと味わいながら、日々を感動で埋め尽くしていきたい。

 

そう、決めた、お正月でした。

 

最後まで目を通していただき、ありがとうございます。

 

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生命場

 

ノーマインドに思うこと。

言葉ではなんとでも言えるよね。

 

と聞いたことがあります。

 

なんとでも言える。

 

と言うことは創り上げている「creator」なのか!?

創作表現のプロは嘘つきなのでしょうか。

 

しかし、ゼロイチで生み出している何かがそこにあるのは確か。

 

 

信用するとか、疑うとか、

言葉尻だけだとよくわからないので、

以前はよく人と話に行き毎日を暮らしていた時期もあります。

 

 

ところで、この「信用」

信じて用いる。と言う意味だと考えると、

「信頼」の方がもっと、本音っぽい様な気がする。

 

信じて頼る。

依頼。

依って頼る。

行きすぎると

依って存在する依存に

 

生きていると言うことは、

「自律している神経」に依って

存在できていることでもあるので、

 

本来は、誰しもが独立しているのですが、

概念とか言葉といったものは本当に難しく、

面白く、笑いのタネにもなり、

そして、、、

 

奇跡を生む。

 

そう思います。

 

The amazing things will happen!

(知り合いの女の子のTシャツの胸の上に刺繍してあった言葉です(^^))

 

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アタマリキ(頭力)