愛の深い人

愛の深い人。

 

広い訳ではなくて、「深い」人です。

 

だだっ広く愛を振りまくよりも、

もっと深く味わいを残すように愛情を持っている人が時々います。

 

 

そう言う人は、別にこれと言って何か突出していないか、

そればかりか、

何も持っていない人であったりします。

 

突出しているものを持っていれば、

外に出したくなるから、

 

当然。

 

何かの機会にそれを人に伝える機会も増えます。

 

しかし、そんな感じでもない。

 

日常を淡々と過ごしているような感じすらします。

 

 

 

「愛」

と、

一言に言いますが、

それは一体なんなのでしょうか?

 

「この感覚?」

「あの人が抱えている「であろう」その感覚?」

 

別に探索しなくても、実はもう、目の前に現れていたりする。

 

僕らはいつも罪を犯します。

 

完全に潔白な人などいないでしょう。

 

でも、それを見ても許してくれている人がいる。

許されている自分がいる。

そして、誰よりもそばで

「自分が」自分を許している。

(裁いている。と言うのは実は便宜上であったりする。と自分を見ていて思います。)

 

ただ、ちょっと臆病なだけで、

 

許されることを選んでいるし、

許すことも選んでいる。

 

それがごくわずかな心の残渣のようなものであったとしても。

 

 

特に、その自由な真心を大切にする人を、

愛の深い人。と僕は呼びます。

 

 

よく泣きます。

よく笑います。

よく世話をします。

 

でも、それは。

とてつもなく悲しい時期を経てきたからなのかも知れない。

 

自分がして欲しかったことを、人にして「あげたい」

 

自己犠牲だと揶揄する人もいますし、

気持ち悪く見える時も(私の視点からも)当然あります。

 

 

でも、

そのわざとらしさすら、心の中に住んでいていい。

と無罪放免にした時、

 

心というカテゴリーは、自分と他の人に共通するものだと思われるので、

 

当然、相手の心の中に巣食うその「何か」も許せてしまいます。

勿論自分にも。

 

 

許したくなかったら許さないで、裁き続けていけばいいのだと思います。

 

 

 

気持ち悪くてもいい。

そしたなら、

 

気持ち悪かった全てが、「機能している」事にも気づけそうです。

 


Sing like snuffkin - 君が決めること & 夜空の星の下で