役割と雰囲気を沢山持って、人生を彩る。
ある日、PHPと言う小雑誌を読んでいた時、
”苫米地博士”のコラムが乗っていました。
概略するとすると、、、
「気」と呼ばれるものは確かにある。
脳の側面から説明できる。
「あるものにまつわる記憶と、それに紐付いた役割」
これを、風水で言うところの「気」と言う。
インドでこんな話があると言うのも、付け加えておきたい。
「夜の暗闇の中、枝から蛇がぶら下がっているのを見た人がいた。」
「うわーーーーーーーっ(どこの国でも、蛇は怖いものなんですね)」
しかし、よく見たら、「紐」が蛇に見えていただけだった。
その人の心の中では、
「枝からぶら下がっている。それもジャングルの中。闇世の中なので、よく確認も出来ない」
となると、、、
当然。
「蛇」と思う節がある。けど、
「紐」とはどんな役割を持っている。と認めているのか?
そもそも、闇夜のジャングルにおいて、長細いものが現れたなら、
「紐」と言う存在として、「存在している事実を認められるのか?」
と言う問題もそこにはあるんだと思いました。
錯覚の世界ほど不思議なものはない。
だまし絵のミュージアムに行った時はびっくりしたものだったし。
気と称するものを感じで思い出すのも面白い。
「気持ち悪い」
=
「気として所有したり抱きとめておきたくない」
→存在:嫌だ!
こんな感じでもあるのかもしれない。
普段、どれだけ、
「差別化するための言語」があるのか、わかる瞬間って、ないものだろうか?
僕は時々、見つめてしまうのです。
「しまう」からには、止める事もできる。
「しまう」からには、「引き出しから取り出す」ことも出来る。と言う具合に、、、
今、目の前の景色。
苦しい、暗い、辛い。
そう思ったなら、
そこには、「役割」が幅を利かせていると言ってもいいかもしれない。
どうしても我慢ならない!生理的に嫌!
となったなら、、、
空に浮かぶ雲と、紺碧の空の色を眺めてみよう。
そんな風に、、、
「手を伸ばすことすら出来ない場所にある」
「操作もできようがない」
ものとして、、、
通り過ぎるのを待つのも、乙です^^
シャレオツです^^
友達から連絡あり。
愛犬が亡くなったと。
「モーニング=喪に服す」だそうです。
と、伝えました。
悲しみが生まれちゃう時は、悲しみ「たい」からそうしている。
悲しんでいる自分に役割を同化すると、凄く楽。
無理しないで済むし、抵抗するより、和解した方が重荷もなくなってしまう。
お通夜の夜の闇は、
お通夜らしい役割の雰囲気と共に、
次の日の、葬式という、
「どうしても避けられない別れを決定づける儀式」の日と言う
役割の登場とともに、姿を消します。
お通夜の夜じゃないと、わからなかった、
愛犬との関わりもある。思い出への感傷(傷を感じる)の主訴も、感覚の主軸もある。
だから、モニフクソウ。
終わって、朝日がやってきます。
そしたら、、、
「藻に福爽(モニフクソウ)」
意味わかんないけど、つなげようと思えば繋げられる。
「藻塩(もじお)」で、福と爽快感。
なんちゃって、な感じだけど、
そんな風に。
日々を彩って、やりきって、1日という人生の一部に対し、
終わりの時間は喪に服そう。
そう思う。
そう思うと、後悔というものすら、
とても素晴らしく感じてしまう。
感じきったなら。
そのまんま。
流して、忘れてしあえばいい。
思い出す時はまた、悲しみ切ろう。と。。。。
そんな思いを込めて、友達の女の子にメールを送っておきました^^
コーヒーには、ベリー系、ショコラ系、果実系、などなど、、、
いろんな香りの種類があるそうです。
朝は、ベーコンエッグとチーズの載ったパン。
食べる時には、ベリー系がいいとか。
夜寝る前の(眠りに支障のない人もいます)まったりタイムには、
ショコラ系とか。。。
コーヒーが人類共通の嗜好品になったのは、
嗜好。この中に、
「ライフスタイルと同化するものが何かしらあったから」とすると、、、
「独特の香り感」これが、
日々の、一瞬一瞬という、、
「生活に根付く為の要素をしっかり持っていたから」と言える。
役割とは、
「香り(の持つ、雰囲「気」)があったからとも言えます。
コーヒーを飲む、
90年代の英語の主人公見たく。
いろんな感情や、
雰囲気や、
自分らしさ(役割)を、
彩って、楽しんで見たい^^
そんな考え、持つ人いないかな。
そう思って、共有したなら、これで終わりにしたいと思います^^